緒 言

わが国における軟文学の原点は、昔々の慶長後(1615年~)の京都にあった。小瀬甫庵、安楽庵策伝、烏丸光廣、浅井了意、山岡元隣、野々口玄圃らの軟文学者は、寛永(1624年~)から寛文延宝(~ 1681年)の間に京都で発展した。その後、大阪に発展が移り、天和貞享元禄(1681年 ~1704年)の頃、井原西鶴の浮世草紙、近松巣林子の戯曲が大いに流行り、その影響が京都や江戸にも及んだが、まだ大きな進歩までには至らなかった。しかし、時代は推移して天明寛政(1781年~1801年)の頃、江戸にいわゆる戯作者という者が出てきて、軟文学が隆盛を極め、文化文政(1804年 ~1830年)の化政文化を経て天保(1831年~1845年)に至った。

山東京伝 像

この江戸文学の権威者、江戸時代における軟文学の模範者であったり、鼓吹者であったり、指導者であったりする者は誰か。前に芝全交がいて、朋誠堂がいて、恋川春町がいたけれど、一代を風靡するほどの権威はない。しかし、これらの面々の群を抜いてさん然と頭角を現したのが山東京伝だった。京伝は実に当代の読書界を魅了し、そして著作界を震撼させた大天才だった。その行文のすばらしさはいわゆる京伝派の模範となり、その着想の奇抜さは古今無双の意匠家として尊重された。年長者たちは「彼以後の小説と戯作の大半は彼によって定められた。彼は自ら創造しそして新しい物事を生み出す人物であった」と言った。その通りで、曲亭馬琴は京伝の模倣者、烏亭焉馬は京伝の崇拝者、柳亭種彦は京伝の私淑者、式亭三馬は京伝を学んで及ばない者、十返舎一九は京伝の後塵を拝する者、為永春水は京伝の糟粕を誉める者と見ることができる。

開閉 【人名注釈】江戸前期~中期の文学者たち ~コトバンクより~
開閉 【人名注釈】江戸中期~後期の文学者たち ~コトバンクより~
ウオッチドッグ記者の感想

軟文学は、恋愛などを題材にした文学作品のこと。世の中の出来事を面白く表現したのが浮世草子で、洒落本は遊里文学。
戯作本は江戸後期に流行し、娯楽性の高い小説のことを指したようね。なるほど、なるほど。

開閉 【編者、宮武外骨についての注釈】