戯作者としての山東京伝
生い立ちと呼び名
(曲亭馬琴著の)『岩伝毛之記』によると、京伝の名前は「醒(さむ)」、初めての名前は「田臧(のぶよし)」、本当の姓は「灰田氏」、または「岩瀬氏」であった。江戸出身で、俗称は「伝蔵」、幼名は「甚太郎」といった。かつて京橋銀座第二町目に住んでいたので、「京伝」と称し、その店を「京屋」といった。
「灰田氏」は「拜田氏」が正しいとすべきか。京伝著『安積沼』の奥附にある「朱子読者丸」の広告文に「淸人覚世道人方 椿壽斎拜田信明製」とあり、「信明」は京伝の父親である。
京橋南伝馬町に住んでいたので京伝というと、二、三の蔵書に書いているのは誤りである。「京橋の伝蔵」(後に「京屋伝蔵」)が正しい。『忠臣水滸伝』(※京伝の著作)の巻末に版元店の仙鶴堂の主人の名前を借りて、京伝が自筆した文には「家于東都洛橋南朱提街世人呼為京伝子」とあった。後に、他称を自称としたしただけである。
~『岩伝毛之記』~
名前のひとつは「山東」、後に「庵」の字を加えて「山東庵」とした。思うに、「山東」とだけ号するよりは(「庵」をつけた方が)大きく見せることになるからだろう。もう一つの名前は「甘谷」、もう一つは「菊亭」、京都の著名な人に「この家号がよい」と聞いて遂に「菊軒」と改めた。
もっとも後に、「醒斎」と称し、また、「醒々老人」とも自称した。その意味は、清の覚世道人の人となりを慕っていたからである。
「山東」と称する理由は「その家が京橋の銀座にあった。銀座は愛宕山の東にあたるから」と記されているものが多いが、これは誤りである。京伝の著『初衣抄』の自序には、「天明七年丁未孟陬 楓葉山東隠士京伝老人識」と書いてあり、紅葉山の東というのが理由であることが明確である。
後に「庵」の字を加えて、もっぱら「山東庵」とだけ称したのではない。死去の年に著作した発行本に「山東京伝」と京伝が自著していた。(馬琴が書いている)大きく見せる云々の意味が理解できない。
「菊亭」、「菊花亭」、「菊軒」と称していたのは、吉原の遊女の菊園を迎えて妻とした寛政二年(1790年)春からのことだった。同五年(1793年)その妻が死去した後は「菊」の文字を使った号を使うのを辞めた。
家族のこと
~『岩伝毛之記』~
父の諱(※実名)は「伸明」、俗称は「伝左衛門」、老後に剃髪して「椿壽斎」と号した。寛政十一年(1799年)に七十八歳で死亡した。伊勢(※三重県)出身で七歳になったころ、親戚に連れられて江戸に来た。深川木場(※現在の江東区)の質屋店の伊勢屋に年季奉公した。数年ほど働いた後、奉公先の養子となった。生まれつき正直で、なおかつ弁が立つ人物だったので、大森氏の娘を嫁にして京伝など何人かの子を生んだ。
京山(※京伝の弟)の女系子孫である現(※大正五年、1916年)喜音家古蝶氏がかつて川柳雑誌『獅子頭』に寄稿した記事中には「京屋伝左衛門は、伊勢の人で、以前から同郷であった日本橋茅場町薬師前にある料理店の伊勢太を頼って江戸に出て、深川佐賀町で廻船問屋を営み、二男二女をもうけた。おみせ、伝蔵(京伝)、慶三郎(京山)、次女(名前不詳だが黒鳶式部か)で、後に京橋銀座に引っ越しして、名主となった」という(『岩伝毛之記』と違う)異説がある。
~『岩伝毛之記』~
あるいは、京伝は椿壽斎の実子ではない、その弟妹とは異父であるかもしれない。もしそうならば、京伝の母である大森氏の前夫が実父であったのだろうか。大森氏は幼い頃から、尾州の御守殿(※将軍家の娘が嫁いだ先の住居)に仕えていた。数年後、椿壽斎に嫁いだということは聞いたけれども、前夫がいたとは知らなかったことなので、虚実はわからない。もし、この説の通りであるならば、そのことは秘密にしなければならない。儒生蘭州という者が、享和年代(1801年~1804年ごろ)、彼の家に居候した時、誰かに聞いたからこのようなことを言っている。
編者(※外骨)はその虚実はわからない。暁霞處士は『列伝體小説』の中で異父説を採っている。「京伝と京山は真の兄弟ではない」と断定し、「その確証はないけれど、真の兄弟ではないと思えるところは数々ある」と記載している。

宮武外骨は、曲亭馬琴が書いた『岩伝毛之記』から文章を抜き出して、京伝の生い立ちなどをまとめていますが、馬琴が書いている中で誤りに気づいた場合、本文中に「編者が調べたらこうだった」、「編者はこう思う」と批評を加えながら補足しています。
「ちょっと違うのでは…」と思うが、反論の材料が弱い場合は、本文中ではなく、欄外で「実はこうじゃないのか?」という考えを述べています。
例えば、京伝と京山の父親が違うという異父説については下記のように述べています。
寛政十一年(1799年)『京伝主十六利鑑』の京伝が書いた序文に「京山というのは私の同腹の弟である」と書いている。これもまた、異父説の証拠のひとつになるかもしれないが、京山自選の京山墓誌には「父の信明が江戸に来て、大森氏を娶り、京伝翁と百樹(※京山)また二女を生む」と書いている。これは、異父説の反証とした方がよいのではないか。

わかりやすい現代語訳にしようと、原文を忠実に翻訳する一方、いくつかの工夫を施しています。例えば、固有名詞に「 」を加えたり、( )で言葉を補ったりしています。こうした記号は原文には付いていません。訳者による註には、(※ )という記号を使って、補足説明であることを明示しています。さらに、原文にはない小見出しを設けるようにしています。
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