吉原通い 青年時代の京伝

~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が書いた京伝の伝記)
(山東)京伝はしきりに色を好み、吉原町に通っていた。家には一カ月に五、六日しかいなかった。しかし、父母はこれを許して止めなかった。人々は不思議なことだと言った。ある日、(京伝の)母が(京伝の)物を探っていたら、京伝の籠(※カバン)が開いていた。その中に吉原の仲の町にあった茶屋より送られてきた代金の請求書が数十通あった。驚いたのは、わが子が遊興に費やしているのはこのような状態だけど、その身に着けている衣装や調度品はいうまでもなく、親の物は紙一枚使ってはいない。彼(※京伝)の才覚は大きいと感心して、ますます遊里に行くことを禁じなかった。
ときに、天明年間(1781年~1789年)では、世の中は、派手な遊興をよいとして、よくそのことに通じている客をイキな人といった。当時、裕福で放蕩だった者が十八人いて、この人たちを「十八通人」と人々が噂した。浅草御蔵前にいた札差(※蔵米を担保にした貸金の仕事)に表徳文魚という者がいて、彼も十八通人のひとりだった。京伝はこの文魚の友人となり、(文魚による)問答無用の助けを受けて、ほとんど遊興に費やすところの散財は父母に迷惑をかけず、自分の働きでできた。自分のお金を使わず、数年、遊里(※遊郭)の楽しみを極めることはできたのは珍しいといえる。

編者、宮武外骨による補遺(本文中)

京伝の著作数百種中、遊里遊女のことを記したのは、その十分の一にも過ぎない。また、狂歌としての座興にも、商業としての広告にも、遊里のようなしっとりした言葉、やさしい言葉を使うことが多い。もし、この感情を揺り動かす出来事が京伝の生命(※想像力)であるとするならば、その生命はすなわち、文魚のおかげであるというべきだろうか。

編者、宮武外骨による補遺(欄外)

遊里に溺れることはもとより立派なこととはいえないが、この溺れることで数多くの艶めかしく珍しい著作ができたとしたら、(京伝が)遊興にふけって夢中になるのは、ネガティブなことのみでなく、むしろ(著作のための)題材を探し出すためと見るべきか。(京伝は)淫らな知識を教えていると批判を受けたことに対して、(京伝は)困っている人を助ける親切心を啓蒙していると主張した。

江戸中期・草双紙の流行 京伝が執筆開始

~『岩伝毛之記』~
この頃(※江戸時代中期)の春になると、新刊の草双紙(※絵入りの娯楽本)の作者が出てきた。とにかく滑稽を極め、雅俗と同じように非常に珍しがられた。また、客のつまらない話や、遊女の痴情を写して、女郎部屋の様子を面白おかしくした小冊子が流行った。これを洒落本という。ときに、京伝は当時の戯作者の虚名(※実際の価値にふさわしくない、実際以上の名声)をうらやみ、天明の末(一七八九年ごろ)になって、新たに草双紙を書くことをすこぶるやり始めた。

編者、宮武外骨による補遺(本文)

「虚名をうらやみ」とは(曲亭)馬琴のねたみである。彼(※馬琴)が京伝の名声を聞いて入門を申し込んだ。そして、その戯作に(馬琴自ら)従事した。(馬琴が)他の人の虚名をうらやんだ結果ではなかったのか。なんと言動の矛盾がはなはだしい。

編者、宮武外骨による補遺(欄外)

京伝が戯作を始めたのは、(『岩伝毛之記』に書いている)天明の末(1789年)ではなく安永の末(1781年)である。

~『岩伝毛之記』~
そういうことで、(朋誠堂)喜三二や(恋川)春町、(芝)全交などより、(京伝は自分が)上位に立ちたいと思い、洒落本を書いた。また、各所の神社仏閣へ山東京伝が表した手拭を奉納した。これもまさに(※京伝が自らの)名声を求める手段であった。

編者、宮武外骨による補遺(本文)

このことでまた、(曲亭)馬琴の、事実を曲げて書く性癖が明らかになった、

ウオッチドッグ記者の感想

『山東京伝』の編纂者の宮武外骨は、明治~大正のジャーナリスト。自身も様々な新聞や書物を発行してきた経緯があります。明治に発行した『滑稽新聞』の紙上では、ありとあらゆる古今の新聞を読み込んで時勢を鋭く批評した記事もありました。他者が書いた著作物や人物に対する「真贋の見極めは鋭い」とウオッチドッグ記者は思っています。編纂本では、曲亭馬琴が書いた『岩伝毛之記』を取り上げて、外骨が批判のコメントを加えていますが、馬琴が書いた文面の一部に違和感を感じていたのでしょう。

開閉 【単語・人名注釈】 コトバンクより
開閉 【編者、宮武外骨についての注釈】