黄表紙と洒落本の第一人者に
~『岩伝毛之記』より~ (※曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記)
この期間(※江戸時代の天明期間)に、(山東京伝は)狂歌師・四方の赤良(※大田南畝)、元の木阿弥(※大野屋喜三郎)、また同門の仲間、および書画の諸名人と交流した。
天明末期(~1787年頃)、(朋誠堂)喜三二が『文武二道萬石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』、(恋川)春町が『鸚鵡返文武二道(おおむがえしぶんぶふたみち)』、(唐来)三和が『天下一面鏡梅鉢(てんかいちめんかがみのうめばち)』の草双紙(※黄表紙)をたくさん発行したけれど、とことん(江戸幕府の)禁忌を破るということで、(幕府の)命令により絶版させられた。この後、喜三二は草双紙を書くことをやめた。春町は翌年に亡くなった。歸橋(※不明)も主君より止められて、洒落本を作らなくなった。
このような経緯でただ京伝の作品、草双紙や洒落本が発行されて、その名前が一気に広まった。当時、(草双紙の)作者は数人いたが、京伝の作品を抜きだして作るしかできなかった。
ただ、(芝)全交のみは時々作品を書いて同じように発行したが、それぐらいしかいなかった。
このようにして、毎年、京伝の草双紙が多く出た中で、『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』、『山杜鵑土妓破瓜(やまほととぎすけころのみずあげ)』などいう草双紙が発行された。寛政二年(一七九〇年)の頃には、(京伝が)『心学早染草(しんがくはやそめくさ)』という草双紙を書いてベストセラーとなった。(世間はこれを善魂悪魂の草双紙といった。つまり他人の噂をして道理に外れた行いがあれば、悪魂であるといった。この諺は、五~七年流行した)また、洒落本には『息子部屋』、『夜半の茶漬』、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』、『京伝餘師』(※原文ママ、『京伝予誌』の誤り?)、その他数種がある。これらはみな、雅俗というだけでなくよいものとして扱われた。これらの洒落本で、(京伝の)名前はますます高まり、当時、年々草双紙の洒落本が増えてきたが、世間の人は京伝の作品でないと楽しめなかった。
(曲亭)馬琴は、このような事実を書かせざるえないのに、京伝が作家となった動機は、仮に他の「戯作者の虚勢をうらやみ(※馬琴の『岩伝毛之記』に記載あり)」だったとしても、この時分に彼(※京伝)が虚名ではない盛んな名声を博していたと推察できたはずだ。

江戸中期に絵入りの娯楽本・草双紙が出てきました。これまでのような幼稚な草双紙の「赤本」、「青本」と違い、恋川春町らが書いた草双紙は「黄表紙」と称されてブームになったようです。うがちと洒落がきいた大人向けの読み物として流行しました。今でいうコミック本ですね。当初は、武士出身の戯作者が趣味として書いていたようですが、寛政の改革による出版統制でお咎めになりました。幕府の改革を茶化した草双紙は絶版となり、幕府による締め付けで春町らは書くことができなくなりました。武士作家がいなくなった頃に、彼らと交流しその影響を受けた町人作家である山東京伝が台頭したという流れのようです。
~コトバンクより~
黄表紙。3冊。朋誠堂喜三二作。喜多川行麿画。天明8年(1788)刊。源頼朝が畠山重忠に命じて諸大名を文武二道に分けるという話で、寛政の改革の文武奨励策など実相をとらえ、風刺したもの。 ~コトバンクより~
黄表紙。3冊。恋川春町作。寛政元年(1789)刊。寛政の改革時の世相を風刺した内容により、著者は松平定信から出頭を命ぜられた。 ~コトバンクより~
《天下一面鏡梅鉢》(1789)は寛政改革を風刺し評判を得た。~コトバンクより(抜粋)~

小学館発行の雑誌『サライ』(2025年2月号)が、蔦屋重三郎の特集を組んでいました。とじ込み付録として山東京伝の『江戸生艶気樺焼』の冊子がもれなくついていました。コミックのように現代語に意訳したセリフを入れてました。下の絵です。ブサイクな金持ちの息子が女性にもてたいと思って大騒動をひき起こす物語です。主人公の艶二郎の上をむいた獅子鼻キャラが江戸で人気になりました。京伝のその後の作品では、京伝自身の似顔絵を獅子鼻にしたり、手拭いのデザインとして、獅子鼻キャラを登場させたりしたようです。




そして、京伝のベストセラーが『心学早染草』です。宮武外骨編纂の『山東京伝』にも、下記の挿絵が掲載されていました。「悪」と「善」の顔をつけたキャラクターを京伝が創作しました。善玉悪玉が人の内面で攻防戦を繰り広げ、その影響で人間が善悪の行動をするというストーリー展開のようです。江戸時代にこのような発想の物語ができていたのは驚きです。
