京伝の結婚
~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記)
寛政二年(1790年)の春二月、吉原江戸町扇屋花扇の番頭新造(※花魁の世話をする女性)の菊園が京伝の元へ駆け込んだ。菊園は京伝が思いを寄せた遊女だった。去年の冬、主家の年季勤めが満了となってもなお扇屋にいた。その主人の扇屋宇右衛門・俳名墨河は京伝の友人だった。だから密かに菊園に勧めてあえて(京伝の)家へ向かわせた。京伝は(菊園と結婚の)約束をしていなかったけれど、(京伝に対する菊園の)情熱が切実だったので(菊園を)拒むことはできなかった。父母もこのことを咎めることはせず、ついに京伝の妻とした。この女性の容姿はそれほどではなかったが、その気質はおとなしく実直だった。このような人物なので煮炊きが上手く、かつ舅と姑に尽くした。身ぎれいにして、苦労を惜しまないその立ち居振る舞いは、遊女とは見えなかった。(この女性の姉は、歌舞伎狂言作者の玉巻恵介の妻だった。その妹は天明中扇屋の内瀧山という名前の名妓だった)
この遊女の菊園を妻としたことについて、『吉原細見』(※江戸の吉原遊廓についての案内書)の専門家である堀江東華樓の主人に対して、菊園に関する調査を求めた。同氏からの返信では「天明元年(1781年)春の『(吉原)細見』には菊園の名前がなかった。それで推察するに、この女性は天明元年秋以後に初めて遊女としての仕事をして、寛政二年(1790年)以前に遊女を辞めた。『伊波伝毛之記』に去年の冬勤めに年季が満了になったので、遊郭を出るべきところがなお扇屋に留まった云々」という内容だった。なお教えてもらった天明六年(1786年)の『(吉原)細見』を調べたら、扇谷に所属している遊女、呼び出し(※客に指名される遊女)、散茶(※中級ランクの遊女)以下八十三名中、菊園の名前は三段目の細字で、上席の遊女より四十六人目に書いてあった。当時、劇作家の大家であった京伝のパートナーとしては、あまりにも安っぽい遊女であるのを(自分が)不思議に思って、このことを堀江氏に質問したところ、堀江氏の回答では「大通(だいつう)(※遊興のことに通じている人)の文魚(※貸金の仕事をしていた京伝の友人)のお供をしていたときの遊興ですから、上席の名妓はみんな大通たちにとられて、お供(京伝)には、遊女見習いをあてがわれたのが、馴染みとなったのでしょう」ということだった。その判断は、確かに理屈にあっているようだ。
自作に惚気(のろけ)

黄表紙『堪忍袋緒〆善玉』 左から、京伝、菊園、蔦重
京伝は寛政二年(1790年)の春、菊園を妻としてから、(京伝自身の)別号を菊亭または菊軒、菊花亭と称し、その後の戯作を書くうえでもノロケを発表しようとしたことが多かった。この年(1790年)執筆の洒落本『娼妓絹篩(しょうぎきぬぶるい)』の自序には『菊花亭において題す山東京伝』と記している。また黄表紙『洒落見絵画』にも菊亭の額を掲げた下に(京伝が)京伝机に向き合っている絵を掲載した。寛政五年(1793年)春に発行した黄表紙『堪忍袋緒〆善玉(かんにんぶくろおじめのぜんだま)』には、二面通しの挿絵に「菊亭」(※原文のママ。正しくは「菊軒」)の額を掲げ、書店の蔦屋(重三郎)主人に茶を勧める女性は、腰元(※女中)風に装っているけれども、実際は自身の妻であるお菊を暗示して裾模様に菊花を描いている。
ただし、この女性(※菊園)が寛政五年(1793年)秋に病死した後は、このことは(※ノロケの発表)ストップした。

山東京伝は、若かりし頃に知り合った遊女とずっと付き合っていたようね。戯作者として有名になったら、上席の有名な遊女へ馴染みを変えることもできたでしょうに。そして、遊郭の務めが満了になってからの結婚ということは、当時としては、適齢期が過ぎていた年齢の女性を奥さんに迎えたということでしょう。それも、押しかけ女房のような状況で、追い返したり知らんぷりもできたでしょうに、正妻として迎え入れています。
外骨が評伝で推測しているように、京伝が遊郭に通っていたのは女遊びというだけでなく、1人ひとりの遊女の人間像を観察していたようにも思いますね。人柄や内面を重視して、誠実に人(女性だけでなく)と向き合う京伝像が浮かび上がります。
「菊軒」という額の下で京伝は座卓の前に座っています。着物の柄には、京伝の文字がみられます。お客として京伝と面会しているのは、NHK大河ドラマでも話題の版元(書店)の蔦屋重三郎です。着物の柄は、富士山型に蔦の葉で「商標」です。蔦屋重三郎にお茶を出しているのは、京伝の妻、菊園です。着物の柄は菊の花です。着物でその人物が誰であるか、一目でわかるように描いています。