交流の始まり
~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記)
この年(1790年)の秋、(曲亭)馬琴は初めて(山東)京伝に会う。一見して古くからの知り合いのように、好みが同じだった。京伝は宝暦十一年(1761年)辛巳八月十五日、深川木場(※現在の東京都江東区木場)の質屋で生まれた。この年(1790年)三十歳だった。馬琴は明和四年(1767年)丁亥の夏六月九日、深川浄心寺(※臨済宗妙心寺派陽岳寺のこと。現在の江東区深川2丁目)近辺の武家に生まれた。この年(1790年)で二十四歳だった。幼少の頃、それぞれが住んでいる住居は遠くなかった。わずか数町の隔たりだったけれど、師匠は同じではなかった。(京伝は書を深川伊勢崎町辺りの御家人行方角太夫に学んでいた。この人物は、自身の流儀で日本語の書を教えていた。馬琴は深川八幡一の鳥居(※富岡八幡宮。現在の東京都江東区門前仲町に「一の鳥居」があった)辺りの師匠、小柴長雄(こしば・ちょうゆう)に学んでいた。この人物は三井親和の高弟だった)その武家と町家の違いがあったのでお互いに知ることなく二十歳あまり、(初めて会った)この日、それぞれの郷里のことを告げ、互いに拍手して奇遇とした。これをきっかけに(京伝と馬琴の)交流が深まった。
馬琴自らが第三者のような筆致で書いたこの条(※京伝と出会いの部分)は、普通の訪問談として書いている。しかし、京伝の弟・京山の著作『蜘蛛の糸巻』には「曲亭馬琴は寛政の始めの頃、家兄(※京伝)の元へ酒一樽を持って初めて来て、門人になりたいということを言い、(住んでいる)場所を聞いたら、深川仲町(※現在の江東区門前仲町)の裏家に独りで住んでいるという。家兄(※京伝)は、「草双紙の制作は、本業がある傍らの趣味としてやるもので、今の著名な作者はみんなそうしている。また、戯作は弟子として教えることは何一つない。自分も含め古今の戯作者誰一人師匠はいなかった。そういうことで弟子はお断りする。しかし、気軽に話をしに来なさい。また、できた物(※作品)があれば見てやってもよいと伝えたので、(馬琴が)しばしば来て質問などをしていた云々」と(弟の京山が)が書いていた。これが事実なら、(京伝と知り会った)その後、馬琴が自身の戯作に「京伝門人」と自著している理由がわからない。

山東京伝と曲亭馬琴は幼少の頃、近くに住んでいたようね。笠間書院編集部が編集した「江戸東京名所事典」を参照に、どれだけ近いのかウオッチドッグ記者が確認しました。青色〇印をつけた部分は、京伝の塾があった伊勢崎町。そのすぐ近くの浄心寺周辺で馬琴が生まれています。赤色の〇印で囲んでみました。


曲亭馬琴が書いた『岩伝毛之記』と、その文章をベースに『山東京伝』の評伝を編纂した明治、大正のジャーナリスト宮武外骨の補遺を読むと、ウオッチドッグ記者は「こんな流れだったのでは?」と想像しました。
馬琴が、京伝死亡後に『岩伝毛之記』を書いた頃は、馬琴自身が有名になっていた。その馬琴が京伝との出会いを振り返るときに、「弟子にしてほしい」と馬琴が懇願したような形はプライドがあるので避けた。
一方、京伝に初めて会ったときの京伝の反応、盛り上がった話題のことを馬琴としては『岩伝毛之記』に入れておきたかった。京伝が幼少の頃、住んでいた場所と馬琴の生まれた場所が近かったので話が盛り上がったのは事実として、(京伝の弟の)京山が書いていたような「弟子を断られた」というエピソードは入れなかった。その後も、馬琴は京伝の家にちょくちょく訪問して質問をしていた。この頃の馬琴としては、実質上、京伝の弟子だと主張したかったのかもしれない。
京伝の弟子と世間に認知されたほうが、無名時代の馬琴にとっては本の売れ行きにも影響があったのでしょう。