生涯を通してできる仕事を求め
~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が著作した山東京伝の伝記)
この時期(※寛政4年・1792年)より前に、(山東)京伝が新吉原で、「素顔」という小唄(世間はめりやすと言った)を制作し、萩江何某に三味線の手を加えさせて、中の町でめりやすを広めた。(この長唄の「素顔」を今も時々唄う者がいる)
ただし、それでも生産している物がないので、とうとう生涯を通してできる仕事をやろうと思い、寛政四年(1792年)夏の五月頃、両国柳橋(※神田川が隅田川に合流する辺り一帯。多くの料亭があった)にある萬八楼(※まんぱちろう。料理茶屋「万屋八郎兵衛」のこと)で書画会を開催したら、来館する人が百七十〜八十人もいた。当日の売り上げが約三十金で、これに借金を加えて、寛政五年(1973年)の春に、京橋銀座一丁目の橋の近くで表通りの門側に店舗を借りた。間口はわずか九尺(※272.7cm)だった。(京伝は)紙製の煙草入れ屋を商い、入れ物の形などを工夫して売っていた。日々、遊里に赴き、家にいるときは部屋に籠って著述をやるのみだった。商売のほうは、父の伝左衛門が経営して、その姪(※昔は甥のことも指す)下谷の重蔵というものを雇って、管理の役目をさせたら、重蔵は後に私欲を貪ることが明らかになり追放された。それなので、若い召使い三人ほどを(店で)接客をさせて、伝左衛門ひとりが店を采配した。
この商店を開業したことについては、本書(※宮武外骨編纂の『山東京伝』)後ページ「商人としての山東京伝」の条に詳細を記す。
~『岩伝毛之記』~
この年(※寛政5年・1793年)京伝の妻(菊園)が血塊の病気になってその病がますます悪化して、京伝はその苦痛の声を聞くのが辛いということで、日夜吉原の遊女屋にいて(自宅へ)帰らなかった。この頃より江戸町の玉屋弥八の半人前の芸妓、玉の井と真剣に契りを結んだという。こうして、その妻(菊園)が死去したら(※1793年、30歳だった)京伝はその日、家に帰って葬式を形式通りに行った。
これも馬琴が京伝の性格を傷つけようとし誇張して書いた部分である。
●玉屋の玉の井
寛政五年(1793年)には、玉屋弥八のところに、まだ玉の井はいなかった。他の芸妓のことであろう。玉の井は同九年(1797年)頃より登場した。
貸さず、借りずの京伝勘定
~『岩伝毛之記』~
この後二、三年を経て、父の伝左衛門が管理していた土地の医師何某の家屋を購入して移り住んだ。ここは初めの店より二倍の広さはあり蔵もあり、家も良かった。その後、「読書丸」という丸薬を売り出したが、これも日々多く売れて、近くから遠くへ(評判は)広まり続け、非常に利益を得ることができた。(その頃、読書丸十包が売れると、蕎麦を買って家族へ食べさせたり云々)京伝は文筆の才能があり、常識外れの才能があるだけでなく、世間の望む流行りを取り入れることもまた優れていたし、天来の愛嬌もあった。その運も大きく、やることの度に人気が高まった。しかし、算術は苦手で、足し算すらできなかった。商人には向かない人物だろうと思うが、商売を一生懸命励むことで利益を得ることが上手かった。
若い頃より倹約を信条に、衣服などは身分のある人からの贈り物だった。あるいは金持ちの町人よりもらった物の他に、自分のお金を使って買い求めることはほとんどなかった。まして、下着などは吉原の大店の仕着せの古着を受け取り、縫い直しさせて、ひとつの衣類を十数年余りも着続けた。書籍も人に借りて読むだけだった。蔵書は多くなく、文房具にもこだわりはなく、古い本だけを愛した。たまたま、馬琴などと遊山に神社仏閣に詣でる日も、お茶代は多少に関わらず割り勘にして、自分に損なく、相手に損がないようにした。(この頃、一緒に行った者同士でそれぞれお茶代を八文ずつ出すことを京伝流といった)貸さず借りず、生来、施しを受けることは好きではなかったが、(欲を)貪ることはなかった。友達が窮している状況を救うということは絶対になかった。ケチかと思うがケチでもなかった。そのありようは、商売人に似ていることが多かった。
●京伝流の頭割り勘定
即座に各自均一に出金することを京伝流ということは、当時盛んに行われたというだけでなく、明治年代の古本書店の間でも使われていた。もっぱら
京伝勘定
と言われた所以である。今(※大正時代)も通をきどる連中は、この「京伝勘定」の言葉を使う者がいる。
一時期、京伝の自宅に居候して、京伝に師事していたこともある馬琴が、京伝が亡くなった後に、その私生活を公表することについて、虚実はともかく「下着云々」のことまでも書くとは恩義知らず、人道を外れた行為といえる。しかも、他(※京伝)を下げて自己(※馬琴)を尊くしようとの野心が出ていることに、(馬琴は)一代の文豪とはいえ、その心に思っていることは、実に軽蔑される醜態が極まっている者といえる。
生涯二回の国内旅行
~『岩伝毛之記』~
父の伝左衛門は、京伝に旅行を勧めていた。働き盛りの時に旅行をしなかったら、老いてから後悔することがある。自分(伝左衛門)の生きている間に、京都、大阪に遊びに行けばよいということを(伝左衛門が京伝に)しばしば言った。しかし、実現はしなかった。寛政の中ごろ(1795年ごろ)に(京伝が)浦賀三島や駿河の沼津を旅行することが百日を超え、絵などに書き添えた文章の多くが、土地の者に褒め称えられて二十四余金を得た。
長所が多い京伝
完全無欠の人は古来より一人もいなかった。ただ、比較的欠点の少ない人を良しとするのみ。京伝の性格がこの(岩伝毛之記に書いている)ようなものだとしたら、その平凡ではない長所が多いことはとても想像できる。馬琴のような傲岸偏屈、陰険、卑劣の輩とは雲泥の差である。
~『岩伝毛之記』~
これより先に、天明の末に(1788年ごろ)書店の蔦屋重三郎と鶴屋喜右衛門などと一緒に、(京伝は)日光東照宮並びに中禅寺に参拝したことがあった。旅行はこの二度のみだった。
天明の末に日光に行き、寛政の中頃(※1795年頃)に、静岡と神奈川へ遊びに行った。旅行はこの二つのみというのはどういうことだろうか。享和三年(1803年)の京伝の著作『安積沼』の自序に「寛政庚申(十二)年(1800年)蒲月 山東生有小恙穿鞋擔單身沐浴於熱海温泉云々」と書いている。また、豊亭茶子の『街談文々集要』には、文化十二年(1815年)四月中旬、日光で家康二百年祭の催しがあった時、京伝は狂歌師書店の蔦屋主人などと一緒に日光に行ったときの狂歌を掲載している。とすると、前記(※『岩伝毛之記』に書いてある)天明の末(1788年頃)というのは、文化末(1815年頃)の誤りである。熱海温泉に行ったというのは、静岡、神奈川の旅行の時とみると、生涯二度の旅行(※①日光と、②静岡の熱海温泉と神奈川、の2度)ということになるだろう。

いわゆる今でいう「割り勘(わりかん)」という仕組みを考案したのは、山東京伝だったようです。大正時代にも、通ぶって「京伝勘定」の言葉を使う者がいると宮武外骨が補遺で解説していました。
明治、大正時代のジャーナリスト、宮武外骨は、江戸時代の戯作者、山東京伝の著作、業績、京伝の人物像を尊敬していたようです。たとえ伝記であろうと、師匠とされた京伝の私生活を赤裸々に暴露し、事実でないことも書いていることに我慢できなかったのか、執筆者の曲亭馬琴に対して辛辣な解説をしています。
ウオッチドッグ記者は、山東京伝が戯作を書き続けるのに、父のサポート(商売の采配など)のエピソードや、父による「旅行のすすめ」が面白かったです。若い時に、子どもに経験を積ませようとする親心がみてとれます。