遊女、玉の井との出会い

~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記)
(山東)京伝は数年、新吉原の玉屋(弥八玉屋)の玉の井のもとばかり泊まり、家にいることは一か月のうち、四、五日に過ぎなかった。こういうことなので、親戚や友達はしばしばここ(※玉屋)を訪れた。(京伝の)顔を見ないこの頃の諺に「京伝に会おうとするなら玉屋へ行くべき」とあった。このように、(京伝は)遊郭を宿としたけれど、倹約を信条にしているので、一日にお金は範囲内でしか使わなかった。またこの玉の井も遊郭内で才ある者だが、生涯この人(※京伝)を信用すると思ったので、支出を控え衣装を大事にして、上履きの鼻緒まで手作りして履いていた。(然るに数年、玉の井のために費やしたのは五〜六百金にも及んだが、多くは書や絵を書いたときの礼金や、思わぬ収入のお金を使い、商売の元金が減ることはなかった)

京伝は、若かりし頃、有名な遊郭の客であったのに似合わず、めんどくさがりで美しい衣装を好まなかった。髪を結んだり、髭を剃ったりすることも煩わしかった。お風呂に入るのは、夏や秋の間、一か月に二、三度、冬や春に及んでは、二か月に一回も稀だった。そうして、ある年、玉屋に居続けて十四、十五日に及んだら、すでに髪が乱れ、髭は伸びてしまっていたが、日夜、屏風を立てて、(部屋に)籠もり全然構わなかった。玉の井が見かねて、月額(さかやき)(※月代。男性が前額部から頭頂部にかけて髪を剃り上げること)(京伝に)勧めたが、そのままにして遊郭内の髪結いには剃らせなかった。「私たち(※髪結い)が剃りましょう」と言うと、「まだ眠い」と言って起きなかった。玉の井が自ら、鬢盥(びんたらい)にお湯を汲んで来て、眠ったままの京伝の髪を剃り月額(さかやき)を剃るのは、まるで子どもの世話をしているようなもので、少し剃ったら、京伝がやむえず身を起こして髪を結わせた。そのことやらこのことやらで推察できるだろう。怠惰はこのような状態だが、私情があると急に動き出す。ただ他のことにはのんびりしていた。

編者、宮武外骨の補遺(欄外)

馴染みの遊女が髭を剃ってくれたり、髪を結ってくれるなどは、
いわゆる「お安くない」
ところである。無粋極まる(曲亭)馬琴のような人物には、到底このような人情味を理解することはできないだろう。

父亡き後

~『岩伝毛之記』~
(京伝は)いつも、毎日、朝寝して早く起きることはない。著述は夜を主として、必ず深夜にまで及んでいた。寛政十一年(1799年)、父の伝左衛門 入道 椿壽斎が亡くなったら(※享年78歳)、京伝は初めて家の事務をやった。この時京伝は三十九歳だった。この時まで米の相場を知らなかった。伝左衛門は出家して家主の職を、娘婿の忠助の子どもである何某を配下にして、伝左衛門と名前を改めさせて譲った。京伝を町役人にさせたいとは願わなかった。

親戚がしばしば仲人をして後妻を勧めたが(京伝は)聞かなかった。(親戚が)困って老母と相談した。玉の井を身請けして後妻にしようということで、その翌年ついに、玉の井を呼んで迎えた。(この時、玉の井は遊女として)年季がなお一年残っていたけれど、(玉の井は)有名な人の馴染みの遊女なので、他の客は一人も(馴染みが)いなかった。それなので、主人の弥八もこの(身請けの)要望を受け入れ、二十余金で京伝へ(玉の井を)渡した。ときに、玉の井は二十余歳(この時、二十四歳であった。京伝よりは、十四、五歳ほど下だった)その叔母という人物は、弁慶橋あたりの居酒屋何某の妻だった。父母や親戚はすでに死亡して、ただ弟一人、妹一人がいた。商家に年季奉公し、妹は幼い時にとても貧しい者の養女になり某町にいた。それなので、(玉の井は)居酒屋を実家として、浅艸田町の酸漿(かたばみ)屋の久兵衛(俳名臼倫)という者は京伝がツテを使って、彼(※久兵衛)を立てて仲人として、婚礼の儀式を執り行い、玉の井を改めて百合と名付けた。(池)玉蘭(※江戸時代中期の文人画家)の母である祇園の百合を思い巡らした。

相思相愛の夫婦

~『岩伝毛之記』~
(京伝と玉の井は)年来の相思相愛の夫婦なので、その仲睦まじさは想像した通りであった。この婦人(玉の井)は、前妻の菊園より顔つきがよく、世渡りの才能にも長けて、よく姑の世話もしていた。これより後(結婚後)は、京伝は遊郭に行かなかった。(京伝が)親戚に告げるには、自分は年来の幾多の財を費やして百合を娶ったのに、(遊郭に行くことを)止めることをしなければ、これでは本当の放蕩人になってしまう。それでなくても、自分の年齢は四十に達するので、よくよく老後の備えをしなければならない。そう思うと財産を増やさざるえない。だから、妻の百合がしかじかの帯が欲しいと言ったら、金三分を与えていた。その身(※玉の井)の帯はこのお金があれば何日分でも準備できる。しかし、帯はよそ行きや普段使いの物とも持っている。それ以上を望むのは驕りといえる。しかしながら、(帯代の)代金を惜しんでいるのではないので、代金は(玉の井が)置いておく。「(帯が)切れたら買いなさい」と言って聞かせた。また、しばらくして、(百合が)「べっ甲のくしが欲しい」と言ったので、その代金を渡して言って聞かせたのは、最初(帯)の時と同じ内容であった。百合も(京伝の)説明に納得して、代金がほしいと思うような欲望がなくなり、ついに、余分な物を持たなくなった。

編者、宮武外骨の補遺(本文)

京伝の後妻となった玉の井は、『吉原細見』を閲覧すると、寛政八年(1796年)春の『細見』にはまだ玉の井の名前はなかった。同九年秋の『細見』に玉の井の名前があった。それなので、同ハ、九年に遊郭に入ったといえる。
同十二年(1800年)春二月に、京伝が(玉の井を)落籍(※遊女を身請けすること)したといわれているが、翌年の享和元年(1801年)の『細見』にも、なお玉の井の名前が載っていた。(襲名者とは見えない証拠あり)いづれが間違っているのかわからない。
前妻の菊園は大籬(おおまがき)(※吉原で、最も格式の高い遊女屋)の扇屋の女郎であったが、玉の井は半籬(はんまがき)(※大籬に次ぐ格式の遊女屋)の部屋付き女郎で、その店の五十四名中、上より十五番目だった。
京伝が吉原に通い始めたのは安永の末(1781年)頃であった。前妻の菊園は天明四、五年(1784年、85年)頃よりの馴染みの遊女だったが、寛政二年(1790年)に妻として、後妻の玉の井は寛政八、九年頃(1796年、97年頃)よりの馴染みの遊女で、寛政十二年(1800年)に妻としたら、この前後(菊園と玉の井)の他にも馴染みの遊女がいたのではないかと推察したけれど、物の本にそうした記述は見当たらず、その名前を知る方法がなかった。そこで、野崎左文扇氏より珍しい一材料を受け取った。手柄岡持(※朋誠堂
喜三二の狂歌の名前)が業平小町の賛に(※原本通りのまま。意味は不明。美男美女の意味か?
「天明の頃、吉原松葉やに歌姫という絶世の美女がいた。おしゃれな衣類を着て出てきたのは、いかにも通な花魁と思えた。そうではなく、まるで身分の高い女性のように、心を雅にしても、つまらない女郎だったので、着ている着物のみ通であるという衣通姫と言われた。林山という番頭新造(※花魁の世話をする女性)は優れた者で、何事もこの女性(※林山)(花魁の着物のことなどを)指図していた。林山が才能のある女性であることに惚れて山東京伝がしばらく通った」云々
これに関連した珍しい記事がなお一つある。それは、京伝政演(※京伝の浮世絵師としてのペンネーム)の画作であると鑑定された天明五年(1785年)の刊行『艶本枕言葉』の一節で、同書の上巻に、男女が暑さをしのぐために置いた腰掛け台で戯れている和やかな絵があり、その和やかな絵の書き込みに
「京伝さん、あなた、松印の林山さんという美しい馴染み(女郎)を作ったはずだが、この本を見たら林山さんが焼きもちを焼くだろうね」、「とんでもない。あれは、ほんの気晴らしだ。女郎にハマる野暮ではありませんよ」
こうして(京伝)自らのノロケを書くために、一時、(京伝が)林山を相手にして面白く遊んでいたことを知るべきだ。
「女郎にハマる野暮ではありませんよ」という言葉については、アテにならないと論争する人もいるかもしれないが、京伝のやりたいことは、遊里に溺れることではない。ネタに苦しむ脳を休め、時々の憂さ晴らしとして慰みに遊ぶことである。要は、戯作の資料を得ようとするためといえる。
『艶本枕言葉』のことは後の章に記している。

ウオッチドッグ記者の解説

宮武外骨の解説によると、いわゆる通人の京伝の好みの女性は、番頭新造のような面白い才能のある女性だったらしい。確かに、最初の奥さんの菊園も番頭新造だった。番頭新造は、遊女としての年季が終えた者などが、花形女郎の花魁の世話や外部との交渉などマネージャー的な仕事を担っていたようです。世知に長けて有能でないとできない仕事です。

開閉 【名称、人名の注釈】 ~コトバンクより~
開閉 【編者、宮武外骨についての注釈】