新たな商売にチャレンジと失敗
~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記)
享和三年(1803年)の夏、信州善光寺の阿弥陀如来、浅草寺の寺中にて開帳があり、京伝はそのため(浅草)並木町(※現在の台東区雷門2丁目)にあった商人の小店を八十日の間借りて、(紙煙草入れ屋とは)別に菓子店を開き、自作の広告チラシなどを、全て新しいものを作るようにした。(京伝)自らその新店舗に泊まり、召使二人ずつを十日交代で京橋と浅草の両店舗にいるようにさせたが、その開帳が思ったより盛んではなかったので、菓子は雑費に引き合うほど売れなかった。その期間、京伝が留守のときに、召使いなどが欲にまみれてしまい、かれこれと損をしてしまい、けっこうな元金を失った。京伝の頑張りが報われないこととなって損した。
ただこの一件で、(京伝の)子どもがいないので、(妻の)百合の弟を養おうと思いたったが、彼は二十ぐらいで早世した。(妻の)妹は八、九歳になるが、とても貧しい家に養われていたのが調べてわかり、人づてで(この子を)取り戻そうと画策したが、その養家はとても貧窮し、一女を養うのに大変な所なので、(この子を渡すことを)喜んで承知した。(養家に)すぐに(これまでの)養育金を与えて女児を返してもらい、京伝はこの子を養女にして鶴と名付けた。書画や三弦、生け花などを学ばせて(この子を)愛した。
江戸の文化大火で自宅を焼失
~『岩伝毛之記』より~
こうして文化の始め(1804年頃)に、京伝の母の大森氏が亡くなったので、(妻の)百合が内外の事を執り行い、売り場で「読書丸」、「奇應丸」、「小児無病丸」などの製薬を、(百合が)一人でこれをやっていた。おおよその売買のことや金銭の出納一切のことを記して怠らなかった。京伝は、日夜、自室にいて著作するだけだった。百合は遊女だったことに似合わず、その行いは正しく、社交辞令が上手いので誉める人が多かった。その後、文化三年(1807年)丙寅三月の江戸大火で、(京伝の)家も難を逃れられなかった。しかし、蔵は無事であった。この後、仮設の住居のままで過ごし、門は板塀で、屋根には牡蠣殻を敷いた。そういうことで、(京伝が)親族に話すことには、「自分(京伝)に子どもはいないし妻は若い。ここ近日は商売が思ったように上手くいかない。しかし、読本が流行しているので、潤筆料(※書画を描いたことに対する謝礼)は初めて倍の金額で受け取った。これは家の良し悪しではない。家を作り替えれば財を失い、利を得ることが難しくなるので、この状態のままにしている」と言った。
古書画や風俗を調べて『近世奇跡考』を発行
~『岩伝毛之記』より~
(京伝は)自分の財産を残そうと思ったので、自分の絵に自分で書を書いた扇や短冊を、定価を決めて売ったら、遠近より買い求める者が多かった。読書丸も少しずつ売れた。ただし、煙草管や煙草入れは以前のようには売れなかった。(京伝の)性分として、古書、古器を愛するところがあり、二百年来の風俗や書画、古器などを調べ上げたいと思い、勉強をして和書雑籍を読んで妙録し、年を重ねていったらその学問がすこぶる進んだ。それゆえ、古書画や古器の鑑定を依頼する者もいた。文化元年(1804年)冬に、『近世奇跡考五巻』を著作したが、英一蝶の記述について、英一蜂という者から差し支えの訴えがあったので、版元の大和田保兵衛に告げて、その(一蝶に関する部分の)版を壊した。これは争いを好まない謹慎の所以からだろう。
『近世奇跡考』の記事について、著者の京伝が、(英)一蝶の末流三世の英一蜂より、違法行為を咎められたので、一蝶の遠方地へ流されたことや、その流された地での述懐歌を掲載したためである。

英一蝶という人物は、江戸の元禄時代の絵師です。狩野派で学び、後に町人の姿を描いた風俗画で人気になったとか。元禄十一年(1698年)に、江戸幕府よりお咎めをうけて、三宅島へ流罪になり、12年後にようやく江戸へ帰るのを許されました。山東京伝の『近世奇跡考』という本に、その一蝶の作品を掲載して出版したところ、一蝶の流派を継いだ一蜂から、掲載は差し支えありという訴えを受けたのでその版を壊したようです。江戸時代は、先祖の事件を本にしたりして世間に広めることを禁止されていて、事件に関するものを出版した場合、子孫からお上へ訴えでることができたとのこと。山東京伝も、再び、幕府より目をつけられるようなことは避けたといえます。
昨年の2024年は、英一蝶の没後300年ということで、サントリー美術館(東京)で特別展が開催されました。サントリー美術館がYouTubeで英一蝶の作品を解説しています。