妻方親族の死
~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記)
(『骨董集』を執筆中の)この期間、(山東)京伝の養女の鶴(※原文ママ。学説では「滝」)が亡くなった。年齢は十六歳(※文化九年没、十五歳だったとする説が一般的)だった。(十三、四歳の頃より尾州(※尾張藩)の御守殿(※大名へ嫁いだ将軍の娘の居住の奥御殿)へ部屋子(※女中)として奉公させていたが、労症(※肺結核)になって実家へ戻って遂に早世した)養母は実の姉(※京伝の妻、百合)だった。両親(※京伝と百合)の悲しみはとても大きかった。呼びよせていた(この後、(弟の)京山の長女も迎えて養っていたこともあったという)百合の叔母も亡くなった。また、百合には他にもう一人の叔母がいたが、失明をして剃髪(※尼僧)していた。その(叔母の)子は無頼者で住居不定だった。京伝はその目が見えない尼を(自宅に)迎えて扶養したのはこの頃であった。
京伝の心配
~『岩伝毛之記』~
京伝は百五十金で床屋の家扶(株)をした。毎月、利益を得るので三方金になる。これは、妻に遺したいためである。
ある日、(京伝が)馬琴に言ったのは、「自分には子どもがいないけれど、弟の京山に数子がいるので、父祖の血脈は途絶えることはない。そういうことで後のことは問題はない。しかし、(妻の)百合のために後々のことは計画をしなければならない。だから、しかじかの家扶(※株)を購入した。自分が死んだ後に、彼女が落ちぶれたら、世間の人は必ず、彼女は京伝の妻だった者だというだろう。そうなると我が死後の恥になってしまう。彼女は(これまで)家事を尽くしてくれたので、(彼女の)生涯のためにどうするかを考えないと、いずれは思いがけないことになってしまうだろう。あなただったら、こういうときはどうするかと問われたが、馬琴は答えなかった。
馬琴の持論
その後も(京伝は)再三、このこと(※京伝死後の妻の心配)を言っていた。
馬琴が答えたのは「自分(※馬琴)が思っていることは違う。『顔氏家訓』(※中国の家訓書)には、遺子萬金不薄藝従身、君子はその子にすら財を遺そうとしない、ましてや、その妻さえでもある。あなた(※京伝)が苦労して千金を遺しても、おそらく、(京伝の)死後の状況は今の考えている状況と同じではない。こういうこともまた知っておいたほうがよいと思う。(儒家の)孔子が言うには、其人孝則其政存其人亡則其政亡、財産があっての死後、家督が決まっていない時は、親族はその財産に執着し、他と比べ、はかりごとをし、相争って、ついには、その家を潰してしまう者が古今少なくない。あなた(※京伝)が、もし、賢妻のために、その老後を心配しているのであれば、あなた自身が養生して長生きしたらよいのではないか。あなたはまだ老人の年齢ではないし、賢妻も老婆ではない。(老いる前の)この間に、親族の中から、より誠実な子どもを養ったら後の心配はなくなる。そして、生死は天命によるもので、いつ老いて弱まるかは決まっていない。賢妻がもしあなたより先立って亡くなったら、遺した財産は誰の物になるか。自分(※馬琴)が思うに、財産を遺すことは後々のわざわいを遺すことに等しい。自分には、男女の子どもがいるが、財産を遺すほどの余力はない。ましてや妻のために後々のことを心配する暇はない」と言ったら、京伝は黙ったままだった。
後に、(京伝が)ある人に言ったことには、「馬琴と知り合って二十余年、近頃の彼は、品格がますます高くなっている。彼が(俗的なことに)思い巡らすことを忘れてしまったら、必ず世間の人に見捨てられる。それは、高い山に登ってその山の麓(ふもと)を見れば、はるか遠くでよく見えない。山麓にいて、その(山の)頂上を見れば、はっきりと見える。彼(※馬琴)は山の頂上にいるといえるが、どうして、折々に降りて山麓で遊ばないのだろうか」
ある人はこのことを馬琴に告げたが、馬琴は笑って答えなかった。ある人が強くどう思うか質問したのであえて(馬琴が)答えた。「彼(※京伝)の是とするものを是とするべきではない。自分(※馬琴)の非も非とするべきではない。身分の低い者でも奪っていけないのはその志のみ。これは貴殿が知ることではない」と言ったら、ある人はしぶしぶ帰った。
●自家撞着(※自己矛盾)の馬琴
馬琴は『顔子家訓』を引用して「君子はその子にすら財を遺さんと欲せず」と豪語してるが、馬琴は長男の興継の死後、その子(※孫)のために自分の蔵書を売って武士の官を買い与えたんじゃなかったのか。
京伝が亡き後の妻の身を案じるのは、これは人情の自然のことで、あえて非難することではない。また、馬琴が論旨とするところも、自分(※外骨)は反対ではない。しかし、両人の間で、果たしてこのような問答があったのか否か疑わざるえない。馬琴は京伝の死後、弟の(山東)京山が兄の遺産を横領した事実をみて、その事実に符合することを前提として書いてやろうと、後日、このような作り話を入れた記述だったかもしれない。どうしてそう思うかというと、(曲亭)馬琴は、クワセモノだ。次の一条を見よ。
⇒宮武外骨による「曲亭馬琴の卑陋」という批評文に続く(次号にて)

ウオッチドッグ記者は、宮武外骨と同じように、曲亭馬琴の文章に胡散臭さを感じました。
宮武外骨編纂『山東京伝』を現代語訳にする中で、馬琴が書いた『岩伝毛之記』を読みましたが、本稿①~⑬まではある程度の事実を元にしていると思いました。しかし、⑭で引用したこの文章は異質に感じました。
馬琴による話し言葉だけをずらずらと述べる文面。それも、馬琴が自分自身のことを「気韵(きいん)」とか「山の頂きにいる」とか書くうぬぼれぶり。「気韵」という意味は、現代語で気品とか品格という意味でした。
京伝から、亡き後の妻の身を案じて、株などを購入したことを馬琴が聞いたのは事実かもしれないですが、年長で師匠でもあった京伝に対して、『顔氏家訓』を引用して、馬琴が滔々と自説を繰り広げる場面があったとは思えませんね。
この文中にある「あなたはまだ若い。奥様のために長生きしてください」の言葉のみだったんじゃないのと想像しました。
後に、京伝が心配した通り、京伝亡き後、その妻は不幸な状況に陥ってしまいました。馬琴は『岩伝毛之記』の中で、その不幸な事実に触れる前に、自分の説通りになったとする顛末に繋げるため、あえてこの作り話を入れたのではないかと、ウオッチドッグ記者も外骨と同じことを思いました。