曲亭馬琴の卑陋(ひろう)
(山東)京伝を貶して(曲亭)馬琴を揚げる『岩伝毛之記』は、馬琴の著作であると知られて、その人格を疑われ、越後(※新潟県)の富者、鈴木牧之に贈った私信が発表されて、そのへつらいおもねる乞食根性が明らかになり、自ら謹厳を装い、義を叫び徳を筆にして、君子風に構えた馬琴は、要するに、偽善者、卑陋者(※下品な者)との醜名を負うべき者である。
『江戸作者部類』の著者は不詳として伝えられ、「蟹行散人(かいこうさんじん)」、「蚊身田(かみた)龍唇窟」等の号は、何人の匿名なのか知らないという。自分が最近(※大正期)この本を通読して、この「蟹行散人」とは、俗に言う曲亭主人(※曲亭馬琴)、「龍唇窟」とは世を忍ぶ馬琴の仮名(※ペンネームのひとつ)だと知ることができた。その証拠とする要点をあげると
(一)文体が馬琴の調子であることや、馬琴でなくては書かない語句が多いこと。
(二)馬琴でしか知らない事実が多いこと、京伝と馬琴の二人に係る記事が詳細に渉っていること。
(三)「曲亭主人」の条中、他叙的にしなければならない箇所が自叙的の語が多いこと。
(四)安永八年(1799年)平賀源内が監獄の当時、「自分は十三歳の冬だった」と書いていることで、当該記者は明和四年(1767年)に生まれということ。馬琴は明和四年六月九日生まれと自記しているので、当該記者は馬琴であること。
(五)馬琴(※に関する項目)には欠点がなく、その著作はひとつも当たらなかったものがないように書いているのは、馬琴の自慢高慢であること。
細緻に渉ってこれを証明しようとすれば、仮に例として百や千の紙面があってもなお足りなくなる。要するに『江戸作者部類』は馬琴が京伝をけなして、自己を揚げようとしたために著作したものとみれる。他の非難を受ける数多くの自著については、「作者の本意ではなく、版元、書店の要望に応じたもので仕方がない」と逃げ、京伝についての著述はあらぬ事を捏造し、屁理屈をつけてまで非難をした。
(京伝の)『骨董集』が発行され大好評を博し、「馬琴の『燕石雑誌』などはとても比較にならない」との世評を聞くと「京伝は十年の苦心で著作した。彼の暴死はその苦心の結果である。京伝は『骨董集』と討死にした。『燕石雑誌』は曲亭が新作を著作の多忙中に筆を執ったもの。思い間違いが少なからずあったのは無理はない」との遁辞を設けた。(馬琴の)『玄同放言』の売れ行きがよくないにもかかわらず、「近頃、(京伝の)『骨董集』は(売れ行きが)衰えて、一部も注文がない。(馬琴の)『玄同放言』は今に至って年々印刷している」などと書店のおだてにかこつけて、ひたすら京伝をけなし、自己をかばう卑陋(ひろう)の態度、嘔吐が出るような記述がすこぶる多い。ああ、偽善者である馬琴、曲亭とはまさに名詮自性(※曲の字のこと。名前がそのものの本質を明らかにする意)か。
『江戸作者分類』の著者は馬琴であるとの本文を(外骨が)書いた後、友人の石川氏より、そのことは伊原青々園の著『風雲集』において、考証されていると聞いた。その『風雲集』を借りて読むと左の如く、詳細な記述があった。
なおまた某氏の談として、明治二十四年(1891年)頃、芝の古本書店の村幸が、馬琴自著の『作者部類』の原稿を所有しており、ある人に売却したと聞いた。
※伊原青々園が記した証拠記述は原文に記載あり。web上では省略。
このような馬琴である。その著『岩伝毛之記』を読むには眉に唾(※怪しいことや信じがたいことに対して警戒心を持つ)をするしかない。「京伝が馬琴に言うことには」とか「馬琴がそれに答えて」と言う部分は誇張があったり、虚構があったり曲筆があるということを知るべきだ。京伝をけなし、他の戯作者をけなして、自らを高くしようとする部分には、照応(※前後の二つの文章が対応すること)があり抑揚(※互いに調子を上げたり下げたりすること)があり、その文章の巧妙さは、さすがに『(南総里見)八犬伝』や『(椿説)弓張月』(※馬琴のベストセラー本)など、勧善懲悪、因果応報の道理を説いて、満都(※みやこの全ての人)の男女を大喜びさせてきた大文豪の怪腕、ここ(※『岩伝毛之記』)にもまた表現されていると思える箇所がある。
そういうことで、「京伝の菅廟月参りの顛末記」、「百合が馬琴に懇談した件」、「馬琴の著作の文面について京伝が怒った」というような記述は、全て馬琴の自己賞賛である。あまりにも恩師である京伝を鞭打つことの甚だしさには呆れざるえない。京伝を邪推深い偏狭の人としてののしる馬琴はどうなんだ。その(馬琴の)性格は尊大、邪知、偏屈だろう。京伝が吉原の遊女を妻にしたことを(馬琴が)蔑視するとは如何なものか。馬琴は下駄屋の金持ち後家を籠絡して、その家の婿養子となった糠三(※ことわざ「男性は小糠が三合あったら入り婿するな」の意)じゃなかったのか。
水谷不倒氏の『列伝艶小説史』には、「馬琴は、京伝が萬象亭(※戯作者、狂歌師)と絶交したことを証拠として、馬琴を恨んでいたと言っているが、馬琴も学問上のことで山崎美成(※随筆家、雑学者)と絶交したのではななかったのか」と書いていて、馬琴の自己矛盾がわかる。

現代では曲亭馬琴が書いた本として明確になっている『岩伝毛之記』や、『江戸作者部類』ですが、当初は作者不明の写本として巷に広がっていたようです。いわゆる馬琴が匿名のような形で執筆していたとのこと。
『岩伝毛之記』については、すぐに馬琴が書いた物としてバレてしまい、『江戸作者部類』については、外骨が編纂した大正初年頃まで、作者不明のままで伝わっていたようです。
外骨はさすがにジャーナリスト。該当の書物を読んで、「馬琴が書いたんだろう」と疑い、5つの視点から持論を展開しました。後日、「『江戸作者部類』は馬琴が書いたという論説がある」と友人から伊原青々園著の『風雲集(明治33年発行)』のことを教えてもらいました。外骨は、それを読んで、自説が正しいと確信したというような経緯です。
『江戸作者部類』は、江戸時代の戯作者たちを評伝した本です。