ウオッチドッグ記者は、宮武外骨編纂『山東京伝』を読み、このサイトで①~⑮という形に分けて現代語訳にしました。そして、こう思いました。

さすが、編集の天才、宮武外骨。
そもそも、宮武外骨が山東京伝の評伝を編纂したきっかけは、1916(大正5)年10月8日に山東京伝の菩提所の回向院で、没後100年を記念して行われた「遺物展覧会」の記念刊行物としての出版でした。外骨の雑誌『スコブル』第2号(大正5年11月発行)では、「遺物展覧会」での外骨編纂本の無料配布について言及しています。
いわゆる京伝マニアたちが、保有している作品などを「遺物展覧会」に出品しました。出品数は約300品で、展覧会の観覧者は約500人でした。その展覧会で、主催者の「図画刊行会」により、販売される前の宮武外骨編纂の『山東京伝』の無料配布があったということです。
宮武外骨編纂『山東京伝』の市場での発行は、その展覧会開催の1か月後、11月20日でした。

宮武外骨が編纂した『山東京伝』を、京伝マニアの集まりで先に配付するということは、外骨としては、2つの要素を意識したように思います。
まずは、江戸の劇作者としての山東京伝の評価を正しく広める。
もう1つは、京伝の評価を貶めた曲亭馬琴の嘘を明らかにする。
「京伝マニアにとってモヤモヤを解消できる本にしなければならない」と考えたでしょう。
外骨が序文で書いていたように、山東京伝の評伝を書いた本は少なく、それでも外骨は2カ月の間、資料を集め続けました。そして、曲亭馬琴の『岩伝毛之記』を主として引用し編纂しました。
馬琴は、文政2年(1819年)12月に『岩伝毛之記』を完成させました。京伝が亡くなったのが文化13年(1816年)なので、亡くなってから3年後のことです。

この流れですね。
京伝死亡(1816年)⇒妻、百合が死亡(1818年)⇒馬琴が『岩伝毛之記』の執筆を完成(1819年)
馬琴としては、京伝の生い立ちや経歴などを書いた部分については、京伝のことを知っている人がその当時は多数生存していたので、デタラメは書けない状況でしょう。
しかし、京伝と馬琴との対話や、妻、百合に関することなどは当事者が亡くなっていますので、本当にそんなことがあったのかは、当事者しか知らない話になります。確かめようがない部分です。
ここに、いわゆる江戸の「読本」の第一人者で、伝奇物のベストセラー本を数々生んだ馬琴による「物語」が含まれていると、宮武外骨はにらみました。誇張や抑揚ありの馬琴のストーリー仕立ての上手さには、外骨も「大文豪の怪腕」と唸りました。
曲亭馬琴の『岩伝毛之記』ですが、「生い立ち」から「家族や育った環境」、「戯作者へ進んだ道のり」など、引用部分だけでも興味深いストーリー展開でした。

宮武外骨は、馬琴の『岩伝毛之記』を引用しながら、徹底した批評を重ねました。
馬琴の書いた『岩伝毛之記』とバトルをしているような形式です。宮武外骨が読者を惹きつけるためによく使う手法だと思いました。明治時代に発行した『滑稽新聞』でも、汚職政治家や官吏などとのバトルをオモシロ可笑しく記事に仕立てました。
大正時代に誰もが知る江戸の戯作者の権威であり、『南総里見八犬伝』で八徳の「仁義礼智忠信孝悌」を高らかに掲げた作者である曲亭馬琴自身がこの八徳を守っていないと編纂者の外骨が筆誅した形に仕立てました。
馬琴へのツッコミ文を掲載することで、馬琴のネームバリューを利用しながら、大正の庶民にもわかりやすく、『山東京伝』の功績を知ってもらうというのが宮武外骨の狙いだとウオッチドッグ記者は思いました。
ウオッチドッグ記者は、馬琴の『岩伝毛之記』を元に、生い立ちや青年時代などカテゴリーごとに分けて、宮武外骨編纂の『山東京伝』を現代語訳にしました。そして、宮武外骨編纂『山東京伝』⑮で訳した内容がいわゆる流れを変える分岐点であると考えました。外骨はここで一気に批評の持論を長めに展開していました。

宮武外骨はこの本を編纂するにあたって、山東京伝の経歴という「事実」を先に続けて引用して、最後の京伝亡き後の記述を引用する前に、馬琴の創作と思われる「京伝と馬琴の会話」の引用文を入れています。読者は、ここで違和感を覚えます。その後に、外骨による馬琴が書いた2作(『岩伝毛之記』と『江戸作者部類』)の批評。外骨の引用文の使い方は、非常に上手いと思いました。
ちなみに、大正5年11月に外骨が発行した『スコブル』2号で、『日本及び日本人』という雑誌に掲載された川柳、「京伝も本を売るので祭られる」という句を書いた作者について、外骨はこんな反論を書いてました。
「小説、戯作の大家を追慕して推挙し紹介するのであるから、社会に害毒を流す点は少しもない」
「これに非難攻撃を加える程の悪事ではない」
「こういうことは寧ろ奨励すべきである」

そう反論し、続けて反撃文を書いてます。
『日本及び日本人』の紙面で、山東京伝の百年祭と外骨の編纂本を皮肉った川柳の作者に対して「駄句を毎号載せている『日本及び日本人』で、大阪商船会社や宇治川水電会社の大広告を毎号出している裏事情を皮肉にすっぱ抜いて、こんな川柳を詠んだらどうだ」と。
「中徳も金を出すので祭られる」
中徳とは、明治、大正時代の政治家で、大阪商船や宇治川水電会社の社長を務めた中橋徳五郎のことのようです。外骨が『スコブル』記事の欄外で書いている内容によると、航路補助金問題の是非が世間で騒がれていた時期だったようで、要は「中橋徳五郎が裏事情で儲けた金で『日本及び日本人』で祭られている」と皮肉った川柳をお返しに書いたということです。
これも上手いですね