京伝が愛用した印章
~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴による京伝の伝記)
(山東)京伝は天性の狂才があった。初めの頃は、草双紙や洒落本で名前が知られるようになった。毎回の本に用いていた巴山人という印章は、(京伝の)父と共に深川木場で質屋にいた時、質物の中から出てきた。これ(印章)が質に流れてきたので、父は京伝にこれを与えた。この時、京伝の年齢は八、九歳。これ(印章)を愛玩することは天界の毬玉のようだった。ある時はこれに紐を付けて凧をくくりつける道具のようにして、腰につけて失くすことはなかった。天明の末(1789年頃)に初めて草双紙にこの印章を用いて、ついに世間が(京伝の作品と)見分けることになったので、ほとんど他の印章を使わなかった。(世間はこれを京伝の牡丹餅印といった。その形が似ていたからだった。京伝の店の暖簾にもこの印を染めた)これは銅印で中国の品に似ていた。(京伝の)生涯で、己山人の号を使わなくても、印はこの人(※京伝)によって現れ、この人(※京伝)はこの印によって有名になった。

いわゆる「牡丹餅印」
京伝の印章は糸印(※鋳銅製の印章)である。印の文字が果たして巴山人かどうか疑問である。京伝の没後、寡婦の百合が弟の京山と争い、この印章を京山に渡さなかったら、京山は偽印を作って自己の書画に押捺していた形跡があった。虫眼鏡でその印影を検証したが、銅ではなく木刻だった。これがその偽印の証明であると言う人もいる。京伝の書画には多く偽物があって、この偽印を押捺したものが多い。京山が仮に偽印を作ったとしても、篆刻家でもあった京山が素人でも鑑別しやすい木刻の下手な物を作ったとは思えない。
京伝の生活と執筆スタイル
~『岩伝毛之記』~
(京伝の)初めの頃は書を読むことに通じているということはなく、文を綴ると必ず和漢の故事を引用せざるえなかった。そういうことで、世間が(京伝を)博学と思っていた。これもまたその才能によるともいえる。年齢が四十歳になると、しきりに趣味に夢中になり、その研究のために、和書や新書を読んでいたら学問がすごく進み、才能にあふれるようになった。ただ儒学にははなはだ疎かった。これゆえ、四書(※儒教の根本経典)の語の類は半句も記憶していなかった。識者はそのことを残念であると言っていた。
(京伝は)生まれつき身体が弱く、少しの重さにも耐えられなかったけれど、多病ではなかった。五十歳になるまでほとんど白髪はなかった。視力もよく歯も1本も抜けていなかった。元々、酒を嗜まないが美味しい酒を貯えて毎夕酒を一杯飲んでいたがこれは血を巡らせるためだった。しかし、灸治を嫌い、かつ餌薬(※養生のための薬)を服用しなかった。ただ食と淫を過度にしなかった。雷を恐れて夏日は遠くへ出なかった。船を恐れて水行はしなかった。
著述は毎回、原稿を容易に軽々しく書店には渡さなかった。ただ遅筆なので、原稿が抜け落ちてしまい、早く書くことができなかった。このため、草双紙の他は、必ず歳月を重ねなければならなかった。そのやりとりを聞くことはなかったが、両親は穏やかだった。両親は(京伝の)信念に任せて止めることはなかったので、一家は和やかで兄弟や親戚はおしゃべりではなかった。控えめで何事も思慮深く、ただ、虎を怖れるかのように官吏を怖れていた。友人と交流するのに争うことはしなかったが、いささか嫌う人もいた。(中略)その才能は滑稽と絵の組み合わせが妙であって、趣向の筋は巧みではなかった。それゆえ、中国の小説や説経の趣向を取って作品を作ることが多かった。しかし、上手く綴るため、その出典はわからず、読者がこのことを知ることはほとんどなかった。
●糞タワケ馬琴
馬琴が京伝の黄表紙及び読本などを盗み取り、模倣したことは、一々挙げることも面倒である。『骨董集』が出て、馬琴の『燕石雑誌』はその顔色を失うことになった。負けじ根性の馬琴めはさらに『烹雑之記』を著作したんじゃなかったのか。骨董羮(※こっとうこう)を略した骨董とはゴッタ煮のこと、すなわち烹雑(※雑煮のこと)の意味である。題材までも(京伝の本の)盗み取り模倣した馬琴が、よくも白々しくホザケタものだ。憎んでもなお余りある者とは、この馬琴にこそいえる。この下段の(外骨の)解説を聞け。
これもまた、京伝を貶する馬琴の自己矛盾である。中国の小説や説経を取り入れて作っているのは、馬琴自身のことだろう。『(南総里見)八犬伝』、『(開巻驚奇)侠客伝』、『(三七全伝)南柯之夢』、『(近世説)美少年録』などの種類、これを自己の創意で作ったものといえるのか。その他の数百の著述は、ひとつとして京伝の模倣、先達の模倣の作品ではないといえないだろう。馬琴は『江戸作者部類』においても、京伝が赤穂義士を主題として作った『忠臣水滸伝』を評するのに、中国の水滸伝を盗み取って模倣したものとほざいた。馬琴が(京伝の)『忠臣水滸伝』が好評だったのを羨んで著作した『通俗水滸伝』、『傾域水滸伝』、『本朝水滸伝』などは、(京伝の忠臣水滸伝)を盗み取り模倣したものではないといえるか。糞タワケめ。
●寧ろ雑学を可とす
戯作者たる者は専攻の博学は必要としない。また古来の戯作者で、真の博学者は一人もいない。馬琴(の文章)もまたいろんなことを切り抜いた雑学の文章ではないのか。
●構想行文の鍛錬
遅筆家に傑作多し。必ずしも一気に出来上がらせることを良しとしない。鍛錬のないなぐり書きに(文章の)生命はない。
原稿料を受け取り執筆
~『岩伝毛之記』~
(京伝は)能弁ではなかったが、その趣向の大略をまずは版元の書店に語った。よくその趣きを引っ張り出すことはプロの落語のようで、書店はすっかり感心して(京伝の話を)飽きずに聞いていた。その原稿を印刷するのに、(書店は)作者の意向に任せるしかなかった。これは(京伝の)技であるといえる。その性質は浮わついていなかったが、老後も興に乗じたら、茶番や狂言などによって人を笑わせることもあつた。戯作者では、風来山人(※平賀源内)または(朋誠堂)喜三二、(恋川)春町など(の作品が)、世間で売れたが、書店より原稿料を受け取ることはなかった。早春に、その作者へ版元の書店より、錦絵本(※多色刷りした木版画の浮世絵)などを贈り、またヒット作が出てたくさん売れた時は、その版元が、一晩、作者を遊里などへ招いて、多少の宴会をするだけだった。
寛政中頃(1795年頃)、京伝と馬琴の作品の草双紙が大変流行したので、書店の耕書堂(※蔦屋重三郎)と仙鶴堂(※鶴屋喜右衛門 )が協議して、初めて両人(京伝と馬琴)が書いた作品の原稿料を決めた。両書店以外の他の版元のために(京伝と馬琴が)作品を作ることがないようにした。京伝と馬琴がこれを許すこと六、七年。その後(両人の作品は)ますます売れて、他の書店で文句を言う者が多くなったので、耕書堂も仙鶴堂の両書店も(他店のクレーム)を拒むことができなくなり、広く(他店でも京伝と馬琴は)著作ができることになった。また、その原稿料もようやくアップしたが、これは書店などが定めたところに従うだけだった。後に出た戯作者は、前例があるので原稿料を受け取れたが、京伝や馬琴が受け取る金額に及ぶ者はいなかった。こういうことなので、文壇では、妬みや羨みで、(京伝と馬琴の)作品をあざける者が多かった。だいたい書画で有名になる者は結構いたが、戯作で学問が進んだ者はいなかった。ただ京伝のみだった。だいたい娼妓に夢中になり破産する者が多いが、娼妓に夢中になって財産をふやす者はいなかった。ただ京伝のみだった。今、この二つのことで、その人となりを思うと、またこのひとも奇人だった。伝えて話題にするべき人物だろう。
●原稿料の始まり 饗庭 篁村(※あえば こうそん)
江戸には狂言作者の他、作者として稼業する者はいなかった。安永天明の黄表紙、洒落本もみな(その道に詳しい)粋な人たちの趣味本というだけで、ヒット作が多い作者(今よりだいたい作者と呼べるのは春町、喜三二、全交の類)も出版書店よりその本の数部と、同書店より出版の絵または小冊子を贈られるだけだった。
寛政三年(1791年)の春、蔦屋重三郎より出版した、京伝著作の『娼妓絹飾』に、蔦重から原稿料として、京伝へ金千疋(弐両弐分)(※弐両=現代価格で約15万円、弐分=約4万円)を贈られたのがすなわち原稿料の始まりである。
それ以前は、ヒット作が出た時は、その作者や画工を吉原または料理店、芝居などへ案内して宴会をするにとどまっていた。しかも、それは、招待して接待するものでなく、多くは本屋の取り巻きによる接待だった。京伝や豊国などは、西村與八から毎年、紋付の羽織を贈られることを名誉や誇りとする程度だった。この『娼妓絹飾』にしても、それは一部(の本)に対してではなく、その前年の同作の『繁千話』『傾城買四十八手』等、ヒット作があればそれらを含んだものだった。
~饗庭 篁村(※明治時代の小説家、演劇評論家)の『あふひ』より引用~
山崎美成の『海録』によると、「この頃(文化末年(※1815年)か)市中で流行している仇討の読本の挿絵、北斎、豊国などの絵は一枚で金一分二朱(※現代価格で一分=2万円、2朱=1万円)ぐらいである。作者には原稿料で謝礼をしているが、近頃まで五冊物で五両ずつだったが、今は、京伝や馬琴などは七両にもなり、十五両にもなったという。古今の変化はこれでわかる。昔はすべて読本は三百ほどを出版したが、今は千も二千も出版している」
~山崎 美成(※江戸後期の随筆作家、雑学者)の『海録』から引用~

原稿料を受け取り作家として稼業する仕組みの第1号は、山東京伝が始まりのようです。
山東京伝に原稿料を出したのは、NHK大河ドラマ『べらぼう』の主人公でおなじみの蔦重重三郎でした。蔦重重三郎という人物は、新しい試みをどんどんするチャレンジャーですね。京伝を耕書堂のお抱え作家にしたかったのは、その才能が突出していたからともいえます。