遺稿のその後

~『岩伝毛之記』より~(曲亭馬琴による山東京伝の伝記)
『骨董集』の中編の遺稿壱両巻及び妙録が数十冊あった。友人や書店などは(山東)京山について、その遺稿を印刷したいと依頼した。しかし、筆録が散乱しておりまだ編集ができないし、また(京伝の)調査資料は揃っていないので完成できなかった。ただし、「むくむくの小袖の考」や、その他一、二条は揃っているものがあった。京山はこれを家で印刷して、故人が生前に残した書に代えて友人たちに贈った。

妻のその後

~『岩伝毛之記』~
京伝の遺産は多くあったという。(その他、従弟の長崎某の元々の遺産云々の金があった)京山は、兄嫁の百合と仲が良くなく、(京伝の)遺産を守るため親戚中に預けた。寡婦の百合は、(京伝が生存していたときの)従来通りを保ち商売もこれまで通りにしていた。ある日、書店の甘泉堂が百合を訪問して聞いた。百合は泣いて言った。亡き夫が生きていた日は、副業として原稿料を受け取り、風流や臨時の雑費を補っていたが、私が女なので、この分を加えることもできずお金も少なくなった。どうしてこの店を守っていけるのだろうか。亡き夫がいた日は、私は義父や義母の命日ごとに供物を作って祀った。また、近隣や来訪のみなさんをもてなした。しかし、ある年、亡き夫が私に言った。自分(※京伝)は、亡き父母の命日や前日ごとに、あなたがお供えを作って祀っていることはありがたいと思う。しかし、費用がないということではないが、今からこれを省かないと、自分の死後を祀ることは、これまでのようにできなくなるだろう。その時(※京伝の死後)は、一年に(父、母、京伝の)三回の命日がある。一回の命日の雑費はおおよそ銭一貫ばかりになるので、年間銭三貫の支出になる。亡き父や母は自分の親である。私が今、これを制するのは、あなたの供養が怠っているからではない。よくよく自分(※京伝)の言葉に従いなさいと言っていた。そして、去年より命日の供養を廃した。今このことを思い出すと、亡き夫は先見の明があった。今は余財はない。それだけでなく、商売では損が多く利益は少ない。たとえ三人の命日の供養をしたいと思っても、とてもできるわけがないと、言葉に詰まりさめざめと泣いた。甘泉堂はこれを聞き、もっともだと話し、涙を拭いて去った。この後、馬琴が百合を訪ねた。百合はただ昔のこと話して家事はしなかった。正月に再度、百合を訪問したら、落ち着かない様子で出迎え、言語が支離滅裂で狂女のようだった。馬琴は(狂女のような百合の)様子を察して早々と去った。これより後は訪問しなかった。

妻の病ますます深くなり

~『岩伝毛之記』~
文化十四年(1817年)夏四月、(弟の)京山は旅行で伊勢や京都や大阪を観光した。秋九月に、寡婦の百合が、書工の(歌川)豊国に亡き夫である京伝の肖像画を描かして、そして表装した。この月の七日は一周忌にあたるので、(京伝の)書像を掲げてこれを祀った。また、亡き夫の旧友数十人を招いてもてなした。百合の言語は支離滅裂で錯誤がみられたので、来客はみな嘆いた。
冬十一月に京山は伊勢から帰った。そして、親戚や旧友に告げて言った。私の兄嫁が病に罹り、言語がわからず、心身が狂乱している。かつ去年の春の商売に損が出た。損金は八十金に及んだ。私(※京山)がこの家を継がなければ、亡き兄(※京伝)の苦心が水の泡になってしまう。十二月になってから、京山夫妻と子ども数人が京伝の家に移った。そして、物置の別宅を掃除して百合をここに住まわせた。ここから、百合の病がますます悪化して、日夜恨み言を言い、また泣いて罵りがやまなかった。文化十五年(1818年)戊寅の正月二十二日に(百合が)死亡した。およそ四十歳だった。両国の回向院にある京伝の墓へ合葬した。

弟の京山のその後

~『岩伝毛之記』~
この年(1818年)の春、京山が亡き兄(※京伝)の遺産を相続して京伝の家を改修し、初秋になって完成した。そして(京山の)息子の筆吉を二世伝蔵として、京山がこの子を後見した。売薬の数を増やして七月二十六日に開店した。
京山の初めての名前は相四郎、外叔母の鵜飼氏の養子になったとき、鵜飼助之進と改名した。養子縁組を解消した後、書家の東州佐野文之助の婿養子となったとき、覧山佐野英介と改名した。また、そこも養子縁組を解消した後、大吉屋利市と改名した。ついに亡き兄の遺産を相続して
岩瀬百樹と名乗った。(山東)京山は号である。文政改元(1818年)の冬、書店の甘泉堂と仙鶴堂が協議して、百合の追悼のため回向院で、大施餓鬼法要(※「狂女」のまま亡くなった百合の霊が悪霊にならないための法要か?)をした。その法要はあえて人に知らせなかった。この法要の開催だが、書店らはこれまで、京伝の著作を発行してすこぶる栄誉を受けた。その徳義を思ってのことだった。
文化の間、京山はある日、山本北山(※儒学者)を訪問した。北山が「あなたは京伝の弟なので、京山と号することはやめたほうがよい。京京は心配な形だ」と言った。京山は心配になり、その号を改めたいとは思ったが、しかし、京山であることはすでに世間に知れ渡っているのでできなかった。数年後、兄の心配ごと(※百合のことか)に関わることになったのもなんとまあ偶然といえるか。

編者、宮武外骨の補遺(本文)

馬琴の傲慢尊大は、京伝の生存中に、早くも京山が「自分は馬琴の恩師(※京伝)の弟である。馬琴が恩師を思う気持ちの義理があれば、自分に対する礼儀があるだろう。しかし、傲慢であって自分を侮辱するのは失礼である」と罵るほどだった。京伝の死後、なお(京山に)「亡き兄の葬儀に参列しないのは忘恩で不義理である」と叫ばせた。

こういうことで、馬琴は京山を憎らしいと思う感情が強くなった。その言い分けをするために、この項の『岩伝毛之記』で「京山は兄の死後、その遺産を横領し、兄嫁を虐待して、兄嫁を狂死させた」とする記述を書いた。これをことごとく信じることはできないが、、思うにこの事実がないとは言いきれない。

ウオッチドッグ記者の解説

一応、精神保健福祉士の資格を持っているウオッチドッグ記者が、馬琴の『岩伝毛之記』の記述から百合の状態を推測をします。

京伝が亡くなった後、百合に、支離滅裂な言語(言葉のサラダか)の症状が出ていたようですね。統合失調症のような症状ですね。
愛する人を失った喪失感、自身の親族がみな亡くなって頼る人がいない状態、1人で切り盛りすることになった商売に対する不安など、かなり強い孤独感から精神疾患を患ったのでしょうか。

馬琴が書いた部分で、脚色と思える部分を抜いて、事実と思える記述のみの経緯をみると、ウオッチドッグ記者は京山が虐待したとは思えないですね。京伝の遺産を親戚中に預けたのも、もし百合が再婚などをした場合、京伝の残した作品や遺物がどうなるか心配した部分もあったのではないでしょうか。京伝が亡くなった後、百合がそのまま元の家で、商売を続けられている様子から、特段に何か京山が百合を困らせたような行動は記述からはみられないです。
確かに、京伝の愛用品を誰が持つかで、揉めたことは想像できます。2人とも京伝を慕っていたことは馬琴が書いた記述からもよくよく伝わりますので。

百合が精神疾患に罹った後、たぶん、近所の人や親族、友人から、「何とかしてほしい」という話が京山に来て、不測の事態などを怖れて、物置で私宅監置をしたということでしょう。現代では、統合失調症のような症状が出ても服薬などで陽性症状を落ち着かせ、日常生活を送れるようになりますが、江戸時代では成す術もなかった状態でしょう。江戸時代では、親族がほとほと困っていたということは想像できます。制度的にやらざるえなかった私宅監置のことで、京山を虐待したと断罪することはできないです。

馬琴は、百合宅を訪問して、百合の様子が変だということで、びっくりして早々に退散したこともあったのに、百合の面倒をみなくてはいけなくなった京山に対して「兄嫁を虐待した」と言える立場ではないでしょう。生前、京伝から「自分が亡くなった後、百合のことが心配だ」という話を馬琴が個人的に散々聞いていたと『岩伝毛之記』に書いてましたけどね。

開閉 【人名の注釈】
開閉 【編者、宮武外骨についての注釈】