ウオッチドッグ新聞では、宮武外骨編纂の『山東京伝』を現代語訳にしてナンバー⑱まで紹介しました。編者である明治、大正のジャーナリスト、宮武外骨は、山東京伝の業績を「戯作者としての山東京伝」、「浮世絵師としての北尾政演」、「狂歌師としての身軽折輔」、「商人としての京屋伝蔵」と4つに分けて評論しました。
ウオッチドッグ記者は、そのうちの「戯作者としての山東京伝」を主に訳しました。戯作者としての山東京伝については、京伝の弟子でもあった曲亭馬琴が、京伝没後から3年後に、京伝の伝記を書いた『岩伝毛之記』を完成させました。
宮武外骨は、戯作者としての山東京伝を評伝するのに、馬琴の『岩伝毛之記』を多数、引用しました。京伝ファンの宮武外骨は、馬琴が書いた『岩伝毛之記』の記述については辛口の批評をしていました。

それでも馬琴の書いた『岩伝毛之記』は伝記として読みやすいです。本当に、そこに馬琴がいて、一場面を見て書いたような細かい描写で、映像として思い浮かべやすい文章でした。創作や脚色箇所などはあったと思いますが、馬琴が書いていなければ、後の世に、京伝の一面は伝わらなかったようにも思います。
ウオッチドッグ記者は、小学生の頃、NHKで放映されていた『新南総里見八犬伝』の人形劇を夢中になって見ました。坂本九さんの語りも印象に残っています。まさに、当時の人形劇は現代に蘇った「読本」でしたね。
↓参照:NHKアーカイブス 連続人形劇 新八犬伝
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010643
当時、小学生だったウオッチドッグ記者でさえ、「八犬伝」の作者の名前、「曲亭馬琴」は知っていました。しかし、馬琴の師匠だった「山東京伝」のことについては全然知りませんでした。
宮武外骨が編纂をした1916年(大正5年)当時は、まだ江戸時代の京伝の業績を知っている古老などがいたでしょうが、時代は「はいからさん」が闊歩し西洋文化を取り入れていた大正時代。宮武外骨がやっていた江戸の文化を掘り起こす作業は古臭いと一蹴されていたのではなかったでしょうか。
時代はめぐり、日本の文化を見直すような動きが出て来ています。NHKの大河ドラマも連続して「文化」に関わった歴史上の人物に焦点を充てています。前回の大河ドラマ『光の君へ』も、紫式部の一生でした。

ちなみに、コトバンクでは「文化」をこんな風に定義していました。
1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の文化」「東西の文化の交流」
21のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。
山東京伝が生きた江戸時代は、戯作者たちや浮世絵師、狂歌師などのそれぞれの技能者たちが相互に交流していた時代。その中でも、山東京伝は突出した創造性を持った人物だったようです。
宮武外骨編纂の『山東京伝』に、外骨がこう書いていました。
「奇抜にして斬新なる京伝の意匠は、後の戯作者の範となりしもの少なからず。(曲亭)馬琴、(山東)京山、(式亭)三馬、(十返舎)一九等の戯作の過半数は、大概、京伝の作品の翻案である」
京伝の弟子だった馬琴は、京伝のことを「天賦の才がある」、「奇人」と評してました。

確かに、京伝が創作したという「善玉」と「悪玉」キャラクターはインパクト強いですね。京伝著作の『心学早染草』で登場しました。善と悪の文字顔で、人間のような動作をする可笑しみがあります。


この「善玉」、「悪玉」をモチーフにした踊りが、江戸時代に流行り今も踊られているというから驚きです。神奈川県小田原市のホームページに、松竹大歌舞伎による三社祭を題材とした「善玉」、「悪玉」の踊りを紹介していました。下記です。

山東京伝作の『箱入娘面屋人魚』は、浦島太郎が鯉と浮気をしてできた子どもの人魚が成長して人間界に行き、騒動が起きる話です。浦島太郎のその後のストーリーを奇抜な発想で作った本でした。


宮武外骨が1916年(大正5年)に発行した『スコブル』1号の表紙絵は、山東京伝が創作した人魚に影響を受けたように思います。こちらの人魚は、だいぶ大正っぽいヘアスタイルしていますが。


他にも、宮武外骨が山東京伝の影響を受けたのではないかと思われるのは、自身の似顔絵を作品に出してキャラクター化させているところです。
京伝自身は遺された肖像画を見る限り、いわゆる細面イケメン系の顔だち。しかし、京伝著作の『江戸生艶気樺焼』の主人公「艶二郎」のキャラクターが世間で大人気になったので、京伝自身の似顔絵を作品に掲載するときは、艶二郎の特徴であった獅子鼻で登場しました。丸顔で愛嬌がある京伝になっています。
京伝は、紙煙草入れ屋を営んでましたが、自身の本に自店の広告を掲載するなど、斬新な手法で商売の方もちゃっかり宣伝しました。下記のように、紙煙草入れの文字を入れて商売の宣伝をしたり、紙面に宣伝文句を入れてました。


一方、宮武外骨も、明治時代に『滑稽新聞』を発行していたとき、自身の似顔絵を紙上にたびたび登場させました。外骨自身は写真で見る限り、丸顔で整った顔だちをしていましたが、『滑稽新聞』の紙上では、口を一文字に結び、いかつい顔だけどどこか愛嬌のあるキャラクターになっています。
「滑稽新聞社」の文字を背面に入れるなど、こちらも自社の宣伝に抜かりはないですね。


宮武外骨編纂『山東京伝』には、歌舞伎の演目「浮世柄比翼稲妻」の登場人物「名古屋山三郎」の衣装を山東京伝がデザインしたということが書いてました。
もう1人の登場人物、不破伴左衛門に扮する衣装は元祖、市川団十郎が工夫したものでしたが、名古屋山三郎に扮する衣装は昔より決まった模様がありませんでした。文化2年(※1805年)に山東京伝が、『稲妻表紙』を著作した際、山三郎の衣装に、「濡れ燕」の模様をつけたようです。こうして、「稲妻」と「濡れ燕」の相対模様は、演劇に用いられることになったとのことです。


過去に、新作歌舞伎の演目でコミック本が原作の『NARUTO-ナルト‐』が上映されたようです。そのときの宣伝媒体物に描かれていたのが下記のイラストです。「うちはサスケ」が来ていた衣装が、名古屋山三郎の「濡れ燕」で、「ナルト」が着ていたのが、不破伴左衛門の「稲妻」でした。
『NARUTO-ナルト‐』のコミック本を全巻読んだことがあるウオッチドッグ記者の感想としては、キャラクターと役の衣装イメージが合ってますね。
正に、江戸と現代、歌舞伎とコミックの融合ということでしょうか。
山東京伝がデザインした衣装を、『NARUTO-ナルト‐』の大人気キャラクターでクールな「うちはサスケ」がイラストで着るのは面白いですね。


時代が変わり、創作者が消えても、良い物は残り続けるということでしょうか。過去と現代、異業種同士の作品融合など、コミュニケーションで文化は発展するということを、宮武外骨編纂『山東京伝』を読んでしみじみ感じました。
また機会があれば、宮武外骨編纂『山東京伝』の続きを現代語訳にしたいですね。