10年苦心の研究
~『岩伝毛之記』~(※曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記)
(京伝は)これよりまた、『骨董集』を書きたいと思い、苦心十余年に及んだ。その期間、書物をたくさん所有している人の家に赴き、珍しい書物を借りた。あるいは、博識の人に質問したり、あるいは、物知りの老人に聞いたりした。聞いたことは必ず書いて、(本を)読んだら必ず記録した。さらに、親しい人やよく知らない人など関係なく、しかじかの家に(目当ての本が)あると聞いたら、そこを訪問して(持ち主から)説明を聞いた。大方、他の蔵書を借りた場合、有用な箇所が書いているのは二、三巻に過ぎず、抜き出しすれば早く返却した。こうして、全書を読むことはないけれど、引用の書が多かった。心配りしながら、奔走するのは一朝一夕ではなかった。思うに、漢学は自分(京伝)が取り組むものではないし、国学は近来、著名な人物が多いので及ばない。ただ二百年来の風俗を考え極めた者はいない。自分(京伝)はこの趣味(※古書画や古器への興味)を持って成し遂げたら、儒者もまた貴重だと言い、国学者も感服するだろうともっぱら(風俗の)研究に苦心した。
『骨董集』は京伝が十年の苦心で出来上がったもの。実に「古今無双」で、「千歳不磨」の素晴らしい書物である。京伝の晩年は、ほとんどこの『骨董集』の編述に全力を注いだ。従来、専業としていた戯作も、ただその余力でやっていたに過ぎないことを表しているのが、文化十二年(1815年)発行の『絵看板子持山姥』及び他数種の序文に「骨董集の著述のいとま醒醒斎京伝織」と書いているものが多い。ということで、(『骨董集』が京伝の)精励努力の著述であることは推察できるだろう。後世、明治文壇の批評家甲乙が「(近世)奇跡考、骨董集の二書は実にこの種類のいろんな著作の始まりである。その後、これに倣って作る者が多いけれど、(山東)京伝に全く及ばない」と言い、また、「京伝の(著作した)稗史(※民間の歴史書)や小説などはおよそ三百部より多く出ている。そして小説以外に、『骨董集』、『近世奇跡考』があり、両書とも風俗を考証している。ことに、『骨董集』のような本は、正確無比と称えられる。(曲亭)馬琴が(京伝の『骨董集』を)羨んで『燕石襍誌(えんせきざっし)』(※原文ママ、一般的な表記は『燕石雑志』)、『玄同放言(げんどうほうげん)』を書いたり、(柳亭)種彦が(京伝の『骨董集』を)模倣して『環魂紙料(かんごんしりょう)』や『用捨箱(ようしゃばこ)』などを作った。しかし、誰も京伝の(『骨董集』の)上に出ることはできなかった」といっているのは、もっともな評価である。
京伝の『骨董集』の一部











●骨董集と燕石襍誌
『骨董集』は京伝が文化初年(1804年)より、著作にかかりて文化十二年(1815年)に発行したもの。『燕石襍誌』は文化五、六年頃(1808年〜1809年頃)の著作にて文化七年(1810年)の発行だった。これ(※馬琴の『燕石襍誌』)を読んで(京伝が『骨董集』を)模倣したというのは正しくない。馬琴は京伝が『骨董集』を出版するのに先立って、いわゆる出し抜かんとしての野心で出版したものだが、(京伝の)『骨董集』が発行されるに至って、彼(※馬琴)は顔色を失った。

編者の宮武外骨は明治、大正、昭和のジャーナリストとして1955年(昭和30年)まで活躍しました。晩年の昭和初期には、東京帝国大学(東京大学)法学部の明治新聞雑誌文庫で主任となり、明治時代の新聞、雑誌を収集するために全国各地を回りました。外骨は尊敬する江戸時代の山東京伝と同じように、古い物を調査し集めることに尽力しました。文化的な価値ある物を後世に残したといえます。尊敬する人物の影響はいつの世も脈々と受け継がれます。

