京伝が育った環境

~『岩伝毛之記』より~(※曲亭馬琴が書いた京伝の伝記)
安永二年(1773年)、京伝は十三歳で、父親の伝左衛門は、訳があって養子に入っていた家と離別して、親戚の家に仮住まいをした。(伝左衛門の)妻の大森氏や、京伝やきょうだいたちも父に従った。まだ幾ばくもしない中、(伝左衛門は)京橋銀座二丁目の町役人になり、両国橋北で顔が広い虎屋(※薬屋)の家主の配下となった。その町屋敷は銀座二丁目の東側の中ほどにあった。間口は十間(※18.18m)ほどで、伝左衛門は家主になり、その土地の裏手に貸家を作って住んだ。これらの多くは妻の一族の援助によるという。新年になり、伝左衛門は初めて年首慶賀のため町内をあいさつ回りをしたが、従者がいなかったので、京伝と(弟の)京山が父の従者となった。
「幼い時、一旦、生活が窮していたので、自分(※京伝)が挟箱を担いで、弟(※京山)が年玉を配ったこともあった」と京伝が自らこのことを(曲亭馬琴に)話したことがある。一方、(伝左衛門は)世渡りが上手で、たいした商売はしていないが、熱心に子どもたちを諸塾に習わせて、後には老僕を一人雇った。その家は、金持ちとはいえないが、貧しくもないようにみえた。この時期より(京伝の父は)岩瀬伝左衛門と名乗った。

編者、宮武外骨の補遺(本文中)

京伝の父、伝左衛門が妻の実家である大森氏の援助を受けていたというのは事実だろうと推察されるが、その実家がどこにあったのか所在はわからなかった。京伝の著作『忠臣水滸伝』の後編部分の自序に「寛政庚甲春三月望、題于王子村別業桃花深處 洛橋老店主人〘京伝〙」と書いてあった。
京伝に別荘があったということはわからない。あるいは、実母の大森氏の実家だったのではないかと推考している。

京伝の弟妹たち

~『岩伝毛之記』~
長男の伝蔵(京伝)の幼名は甚太郎だった。父が銀座へ転居してから伝蔵と改名した。(京伝の)次は女の子(名前はきぬ)だった。小伝馬町の小間物商人である伊勢谷忠助に嫁いだ。この女性も世渡りが上手く今も(文政二年)存命である。その次も女の子(※よね)で、狂歌を詠んで狂名を黒鳶式部といったが、天明の末(1789年ごろ)に亡くなった。死亡時の年齢は十六歳だったという。
その次は相四郎(京山)。以上の二男二女であった。(四人のうち)ひとり、京伝だけが狂才があった。しかし、書物を読むことを嗜まなかった。若い時はいつも堺町に行って、長唄三味線を松永何某に習ったが、その声音がよくなかったので、それを恥じて遊芸を辞めた。それから、北尾重政を師匠として浮世絵を学んだが、絵もまた得意ではなかった。ついには修行はしないで中途で辞めてしまった。

編者、宮武外骨の補遺(本文中)

京伝は「絵もまた得意ではなかった」と(曲亭馬琴に)言われるような人物ではない。その技量は非凡であったが、(絵と戯作の)比較上の長所をとって、もっぱら戯作を仕事とするに至った。馬琴は京伝の絵を見ることがなかったのではないか。あるいは(馬琴の)ひがみによる評価か。

ウオッチドッグ記者の解説

明治~大正のジャーナリスト、宮武外骨は、曲亭馬琴が書いた京伝の伝記『岩伝毛之記』を読んで、馬琴の京伝の絵に関する評価に納得がいかなかったようです。本文中に上記の内容を書いただけでなく、欄外でも馬琴の文章にツッコミをしてました。下記の内容ですね。

編者、宮武外骨の補遺(欄外)

己の才能に適した長所がまだわからない青年時代には、試しにいろんな技芸に携わろうとするのは万人共通の道である。(『岩伝毛之記』の)筆者である馬琴も京伝の世話を受けて戯作者になるまでは、数々の生業に就いていたことがあっただろうに。

開閉 【人名注釈】
開閉 【編者、宮武外骨についての注釈】